讃美歌「我が喜び、我が望み」の
人生を生きた母の告別式

4月5日に、それまで元気だった母が、心タンポナーゼ(心筋梗塞が原因か?)という病気で、急に亡くなったと、両親が通っていた鴨島兄弟教会の大田 健吾牧師から連絡がありました。


その日の17時頃、実家の2階で、父と、母が楽しく会話した約10分後に、再び父が一階に下りていった母を呼んだのですが、何度呼んでも返答がないので、階段を下りて一階の応接間の戸を父が開けてみると、口が少し空いた状態で、こたつで横になっていたそうで、応急手当をしたり、救急車を呼んだりしましたが、すでに手遅れだったようでした。


いつも笑顔で、毎日、明け方から起きて、1時間以上もウォーキングを行っていた、元気印の母だったので、突然の訃報に、親しくしていた多くの方は、とうてい信じれなかったと話していました。


鴨島兄弟教会の大田 健吾牧師が、父から母の死を聞き、急いで病院に駆けつけてくださって、祈ってくださいましたが、祈っている途中、母が賛美歌を歌い、スキップしている姿が見えたそうで、「澄代さんが、天国で愛するイエス様に直接会って、喜び踊っているのが分かリました。」と、仰っていました。


翌日、4月7日の告別式は、鴨島兄弟教会で執り行われ、200名ほどの方々が参加してくださいました。講壇の前には、生前の母の笑顔の写真と棺桶が中央に置かれていて、今にも母が飛び出してくるような気もするほどでした。


式の最初に、母の生涯の慰めとなった愛唱歌が讃美歌527番「我が喜び、我が望み」だと牧師から初めて聞かされ、感慨に耽りながら、参列者と共に歌いました。


    「我が喜び、我が望み」
 1 わが喜び わが望み わが命の主よ
   昼讃え 夜歌いて なお足らぬをおもう
 5 並びもなき愛の主の 御声ぞ嬉しき 
   我が望み 我が命は 永久に主にあれや 


その後の大田牧師のメッセージの中で「まさに、この愛唱歌のように長野 澄代さんは、生き抜かれました」と仰ったときに、参列者の方々が、深く頷いているのを感じました。


告別式の最後に、教会の講壇の前から、霊柩車へと母の棺桶が厳かに運ばれて行ったのですが、私は長男ということで、棺桶の左前を持つことになりました。


参列者、全員で賛美歌「神共にいまして」を歌って、最後を見送ってくださったのですが、「また会う日まで♪ また会う日まで♪」と手を振りながら別れを惜しむ光景は、実に胸を打つものがありました!


私の母に対する思い出の一つですが、小学校の時、学校の成績も悪く、ふざけて箒を投げて、教室の窓を壊した後に、担任の先生と、私と母で三者面談をすることになりました。


担任の先生は、学校での僕の目に余る生活態度だったり、レーダーチャートで僕の成績を見せたりしながら、「息子さん、今、こんな状態なんですよ。家庭での教育をしっかりして下さい」と話していたので、普段、優しい母からも、さすがに軽く叱られるのかなと思っていました。


すると、笑いながら、「うちの子は、大器晩成なんです」とあっけらかんと答えるので、担任の先生が困り果てた表情をしたのを今でも覚えています。


それは、母の一番好きだった聖句、ローマ人への手紙8章28節「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」にあるように、どんな状況にあっても、必ず神様は、一番良いようにしてくださることを、様々な経験を通して、固く信じていたからだと思います。


私は、父や妹とは、過去に大きなトラブルがあったこともあり、長い間、関係性がギクシャクしていて、どうしようもなかったのですが、母の死を通して、これまでに無かったほど、心を割って話すようになり、家族の絆が明らかに深まりました。


そのことで、神様や母に感謝していますし、一方、不思議な気持ちにもなります。
後日、母の死を喜んで語れるように、新しく生まれ変わった心と行いで人生を生きていこうと思います。