日本遺産フェスティバル関連イベント「絹の道を歩こう!」



11月4日、日本遺産フェスティバル関連イベント、「絹の道を歩こう!」という企画があり、参加しました!絹の道とは、馬を使って輸送した幕末から、鉄道が発達する明治半ばまでの間、横浜に輸出用の生糸を運んでいた道のことを指します。

絹の道は、家から走って行くことが出来る距離なので、何度も行ったことがありましたが、ガイドの方と一緒に巡ることはなかったため、とても楽しみにしていました。
 
また、7月14日、日本遺産構成文化財の30番目に追加認定された諏訪神社を1度、見てみたいと思っていたのですが、今回のコースに入っていたのも、この企画に参加した動機となりました!

当日のコースは

13:30 出発(坂上バス停)

13:45 道了堂跡

14:10 絹の道

14:30 鑓水峠下の三叉路

14:35 絹の道資料館(八木下要右衛門屋敷跡)

15:15  諏訪神社(本殿内の見学)

となっていました。

天候もよく、約30人近くの参加者が、二チームに分かれて出発しました。最初に、長い階段を登って行きましたが、大塚山という213メートルの山でした。階段の最後まで登ると、八王子の市街が一望できる大塚山公園に辿り着きました。

大塚山公園にある「絹の道」ですが、地域研究家の橋本義夫さんが1951年に絹の道碑を建てたのが、絹の道の名前の由来になったとのことです。

絹の道碑の下の方には、絹に関連する3つ、桑の葉、繭、糸車が彫られていましたが、今回のガイドの説明で、初めて気づくようになりました。

また、そこから少し登ったところには、道了堂(正式名称:永泉寺別院曹洞宗大塚山大岳寺)跡があります。その場所で、すでに配布されていた資料の一つ、大塚山道了堂境内の図を見せながら、当時の道了堂について、説明してくださいました。

鑓水商人たちが、道中の往来や、遣水の安全のために、道了堂を建てたらしいのですが、当時の遣水商人の勢いを象徴する、壮大な建物だったことが分かりました。

現在は、木に囲まれた薄暗い場所になっていますが、当時は周りの木々は全く無かったようで、道了堂から、視界の開けた絶景が見渡せたそうです。

そこから、古道、絹の道を通って、舗装された道にぶつかる鑓水峠下の三叉路に到着しました。

そこには3つの石塔が建っていましたが、その隣に南津電気鉄道の「停車場の碑」という碑が建てられていることを、ガイドの方が説明してくださいました。
 
大正13年~昭和9年にかけて、聖蹟桜ヶ丘から大栗川沿いに神奈川県の津久井までの南津電気鉄道という鉄道を延ばす計画があったことを示す、唯一の記念碑だそうです。

遣水には、そんな歴史もあったんですね!

最後に、到着したのは、以前から見たいと思っていた諏訪神社でした。

随分と奥まったところにあり、日本遺産構成文化財に認定されなかったら、おそらく私が訪れることはなかったでしょう。

諏訪神社までの階段が、結構長細く続いていて、登るのに苦労している方もいました。途中、鳥居を通って、さらに登っていきましたが、高尾山のように、神仏習合を表す両部鳥居でした。

この日に合わせて、諏訪神社の中を開放して頂いていました。

本来であれば、年に2、3回しか、諏訪神社の中は開放しないそうです。

諏訪神社は、遣水の鎮守のために、生糸商人の寄付によって建てられたため、日本遺産構成文化財としては、申し分ないのですが、なぜ追加認定だったか、専門家の方に聞いたのですが、この件については、誰も知りませんでした(^_^;)

諏訪神社には、市指定有形文化財になっている諏訪神社社殿の4つの本殿(諏訪神社・八幡神社・子の権現・旧子の権現各社殿 )と、諏訪神社拝殿にある、扁額や、天井画などがあり、どれも、時代を超えた、素晴らしい作品でした。

天井画をよく見ると、絵の色が褪せていたのですが、過去に何度か、建物が崩れ、その時に水に浸かったため、現在のような色になってしまったようです。

私は気づきませんでしたが、諏訪神社を管理している方が、「主要な建物でも、傷んだままになっている」と指差し、修繕費が高いために、そのままになっている現状を、さらっと話して下さいました。

重要文化財なので、当然、修繕費の助成金は出るのですが、8割まで出してくれても、その2割は、建物の関係者で解決しないといけないため、結局は修繕できないそうです。企業などと協力して、何とか出来たらいいのですが。

少し早く「絹の道を歩こう」ツアーが終わったため、以前から行きたかった藁葺き屋根の有形文化財「小泉屋敷」の前で写真撮影をして来ることが出来ました!

絹の道から、少し外れているので、場所が、よく分からなかったのですが、参加者に教えてもらって、何とか見つけました!

写真で見ていたより、深くて味のある建物でした!