報道写真家 澤田教一没後50年 澤田サタ・教一二人展 弘前市で開催!

報道カメラマン、澤田教一さんは、1970年10月28日、カンボジアでの取材中に銃撃を受けて亡くなりましたが、今年は没後50年の年になります。


澤田教一さんについて、今年の4月まで、全く聞いたことがありませんでしたが、知り合いの韓国の劇団演出家から、「今年は、韓国が分断国家になって、70年、日本での原爆投下後、75年、ベトナム戦争終戦、45年になる節目の年なので、アジアの平和の願いをこめたベトナム戦争に関する演劇を作りたい。そして、特に東京オリンピック・パラリンピックが開催される日本で、上演できないか?」と話して来たのが、澤田さんに繋がる最初のきっかけでした。


ベトナム戦争当時の韓国兵による殺戮行為を訴訟する韓国在留のベトナム人と、それを抑圧しようとする、韓国元軍人たちとの衝突で世論の目が厳しく、できれば、第3国(もちろん、日本もベトナム戦争に関わってはいましたが)の日本で上演できないかと提案して来ました。


そこで、私が「ベトナム戦争と日本人」をインターネットで入力し、検索結果、出てきた人物の中の一人が、澤田教一さんでした。


ピューリツァ賞、世界報道写真賞2年連続大賞を受賞されるなど輝かしい実績を残す一方、長閑な田園や、べトナムの街中の市民を撮影するなど、その写真や生き方において、平和への願いを持ち続けていた部分が、演劇の方向にピッタリ合うため、演出家の方に、そのように伝えたところ、特に、奥さんのサタさんから見た視点で、ぜひ、演劇を作ってみたいと喜んでいました。


そういうことがあって、長い間、サタさんとお会いできる機会を探している中で、今回の「沢田サタ・教一 二人展」の記事を偶然にも発見し、しかも、サタさんによるトークショーが10月28日に青森県弘前市のオランドカフェで行われると知って、急いで決断し現地に駆けつけました。

(10月28日は、澤田教一さんの命日です。)

現地に到着してみると、弘前市はちょうど、コロナのクラスターが発生した後だったため、あちこちの飲食店が自粛やテイクアウトのみで、パソコンで作業をする場所がなかったのと、トークショーイベントの時間が30分から、15分に短縮されたのには、驚きました。

澤田教一さんと、サタさんの写真が展示されているカフェ兼、展示場で、トークショーが行われましたが、会場には20人ほどが参加し、マスコミ関係者が数人撮影をしていました。

トークショーの始まる前に、リハーサルという形で、マイクの音量を調整したり、サタさんの聞き手役となったクララさんという方が、本番に近い形で、サタさんとやり取りをしたのですが、サタさんは、マイクを使っても、マイクなしで肉声で話しても、なかなか聞き取れないのです。

以前、今年の8月にインタビューをされた映像を見ましたが、その時より、コミュニケーションが、明らかに難しくなっていました。

トークショーが始まりましたが、話の所々で、サタさんの純粋さ、従順さ、教一さんへの変わらない愛情が痛いほど感じられ、真ん中に置かれていた澤田教一さんの生前の写真と対話しているようでした。

質問の時間に、ある一人が「今日、この場にシリアで拘束されていた、安田 純平さんも来られています。」と仰っていましたが、僕のすぐ隣に座っていらっしゃり、庶民的な印象を受け、不思議な感じがしました。

安田純平さんは「澤田 教一さんは、ベトナム戦争の報道ジャーナリストとして活躍されましたが、現在は、同じように戦場にジャーナリストとして行くのに、否定的に考える人が多いし、捕まったりすれば、多くの日本国民から、非難を浴びます。このことについて、どう思いますか?」と質問されていました。

サタさんから、質問に対する答えは無かったのですが、戦争の悲惨さや、戦場に関わる人々の姿を多くの人々に伝えることには、違いが無いけれども、時代が違うだけで、全く違う評価を受けることに対する複雑な思いは、伝わってきました。

サタさんが、教一さんについて、「戦場カメラマンといわれるのを、願っていなかった。この世に戦争がなくなってほしいと、常に平和を望んでいた。」と繰り返し仰っていたのが、教一さんの伝えたかったメッセージに聞こえました。

演劇に、澤田 教一さんを登場させることについて、サタさんにはお伝えしたのですが、サタさんの一番近くで従事し、やり取りをしているクララさんのほうから、澤田さんの名前を出して、演劇をするのは控えてほしいと話しがあったので、別の形で「ベトナム戦争と平和」をテーマに作品を作ることにします。

弘前市から、東京八王子市に帰る前に、澤田教一さんが、好んで撮った岩木山を実際に見てみましたが、本当に、雄大で美しかったです。