新朝鮮通信使の1日目②(釜山→大阪港→雨森 芳洲庵→名古屋)

電車を乗り継ぎつつ、雨森 芳洲出生の町、滋賀県の高月駅に到着しました。

雨森 芳洲は、朝鮮通信使を語る上で、あまりにも重要な人物です(とはいえ、私も、今回、初めて、どんな方か、知りました(^◇^;))


1668年に高月町に生まれましたが、1683年に江戸に渡って木下 順庵という儒学者の下に入門、1689年に、江戸の対馬藩邸で、働き、1698年に、当時、朝鮮との交流が盛んであった対馬に渡って朝鮮方佐役(朝鮮との外交に関わる役職)に任命されました。

朝鮮通信使に関しては1711年の第8回通信使と一緒に江戸まで往復し、さまざまな調整や、外交文書の解読や、作成、通信使の接待などを行いました。

高月駅も、周りにコンビニも無い、田舎の駅でしたが、そこからさらに20分以上、徒歩だと聞き、10人全員でタクシーに乗って行こうか、迷いましたが、女性と荷物を乗せるために一台タクシーを呼び、残りの8人は周辺の環境を楽しみながら、現地まで歩きました!

「田舎なのに、ゴミひとつ無い!」「日本の建物は、昔からの建物だけど、しっかり建てられている!」と、私達からすると、よくある、田舎の環境なのに、彼らにとっては、驚きと刺激を与える光景に見えているのが、新鮮でした。

芳洲庵に到着し、受付の方と挨拶して、館内に入ってみると、その近所で活動している「抹茶を楽しむ会」の方達が、抹茶とお菓子を準備して待ってくれていました。普段から度々、芳洲庵に集まって、抹茶を点てて、来られた方をお客さんを迎えたり、交流していたと聞きました。


その方達との交流後に、芳洲庵の館長が、広い畳の部屋で、雨森 芳洲や、朝鮮通信使についての話をして下さったり、芳洲庵についての、説明してくださいました。

その部屋には、朝鮮通信使に提供した食事や、当時の行列の光景が、粘土を使って作られていて、綺麗に飾られていましたが、みんな、館長さんが、手作りで作ったものだと仰って、歓声が湧きました!

雨森 芳洲は、朝鮮の人たちについて知るためには、朝鮮の言葉を知らないといけないと考え、1702年から、3年間、釜山の倭館で過ごし、ハングルを身につけるだけでなく、その当時の朝鮮語ー日本語辞典「倭語類解」の作成にも協力しています。

特に、芳洲の語った、「誠心外交」は、1990年の宮中晩餐会で、盧泰愚元大統領が話されてから、有名になりましたが、江戸時代当時から、まず相手の国を知り、尊重してこそ、真のお付き合いができると主張していました。

芳洲の書物に書かれた一つのエピソードを、館長さんが、このように教えてくれました。「朝鮮の国王の庭で、稲を植えている話を聞いた、日本のある貴族が、朝鮮の国王のことを、馬鹿にしていた。それを聞いた、雨森 芳洲先生が、『それは、朝鮮の国王のことをよく知らないで話しているのだ。国王の庭で稲を植えているのは、農民の気持ちを知ろうとする、立派な考えから、そうしているのに、相手の立場を知らないから、そのような無知なことを話すのだ。』と外交の心得を説く『交隣提醒』に書いているのです。」だと。

その後、劇団『シルクロード』の二人が「千年の岩」という歌に合わせて、韓国の横笛 テグムの演奏と、韓国舞踊を「抹茶を楽しむ会」の皆さんと、館長の前で披露し、韓国文化を堪能する時間になりました。


芳洲庵は、今も、東アジアの交流と友好の拠点になっていて、日韓関係の難しかった2019年にも、多くの韓国人学生を迎えて、ホームステイを企画して、交流をしていたそうです。

最後には、芳洲庵の入り口で、名残惜しい別れをして、宿泊場所の名古屋に移動しました。