戦国の風雲を駆け抜けた男、北条氏照

11月29日八王子市加住市民センターで、NPO法人滝山城跡郡、自然と歴史を守る会主催の第15回歴史講演会「氏照と合戦」に参加しました。


11月21日の八王子城巡りが、今までの八王子に対する見方を変えてくれたので、八王子の歴史とそのルーツである北条氏照の生き方に興味を持つようになりました。


加住市民センターに到着してみると、「滝山城は500歳」と書かれた横断幕が横長に大きく張り出されていました。来年、築城500年になる年ということで、地域の住民だけでなく八王子市でも盛り上げていこうとしているのが分かりました。


今回の講演会もその一環での勉強会として行われたようです。


講師の加藤 哲さんは、八王子市文化財保護審議会の方で、北条氏照の生涯について、様々な角度から研究されて来たので、前回の八王子城巡りでの説明を聞いて、自分の中で繋がっていなかったものが、有機的に繋がるのではと期待して講演を聞きました。会場は、コロナ期間にも関わらず、大勢の参加者で一杯になっていて、びっくりしました。


北条氏の特徴は、戦いで勝って、征服すると、その後、奪われないことだそうで、北条氏の支配が行き届いていたことを表しています。


また、北条氏から嫁いで行った妻は凛とした人が多く、一生、心を変えず嫁いだ夫に従って行った点、北条家の中で兄弟げんかが無く、家督争いがなかった点が挙げられるそうです。


北条家は、大変、魅力的な家系だったことが、加藤さんの公演で分かってきました。


また、八王子城は安土桃山城に似せて築城されたと、前回の八王子城巡りで聞いたのですが、なぜ、遠い城である安土桃山城だったかは、分かっていませんでした。


それは、当時、北条氏が、関東で反北条連盟に囲まれていたため、遠くの織田、上杉、伊達と手を結び、背後から挟み撃ちするために、それぞれ使者を送ったのですが、北条家からの使者が織田信長のところに送られたことを、信長がとても喜んで、安土桃山城を彼らに見せたことがきっかけだったそうです。


それにしても、当時の蒼々たる武将たちを動かした北条氏照の外交能力は、卓越していんでしょうね。


さらに、八王子城が未完成のまま豊臣秀吉の北国連合軍に攻撃され1日で滅びたことで、哀れな最後を迎えたイメージしていましたが、「城に完成は無い、なぜなら、常に守りを固めるために、新しく作っていくからだ。」と仰られ、納得がいきました。1日にして、落城した八王子城ですが、氏照を象徴した城だったために、見せしめとして、味方の犠牲も顧みず落城させたため、短期決戦になったのであって、北条側も少人数の兵で果敢に戦ったのです。


そして、北条氏が滅びるきっかけとなった、問題の名胡桃城事件なんですが、以前から対立していた真田家との間で起こった事件でした。


当時、豊臣秀吉によって、関東は大名同士、勝手に戦ってはいけないという関東惣無事令が出されていて、豊臣秀吉は、北条家と真田家の領地争いにおいて、仲裁します。


3分の2が北条家、3分の1が真田家に決めていたのに、北条家の重臣である、沼田城の城主 猪俣邦憲が、沼田城から5キロしか離れていない名胡桃城を奪い取り、それが、秀吉の怒りを買ったというのです。


その上に、そのことを秀吉に釈明しに行く使者を、北条家が送らなかったことで秀吉との戦いを余儀なくさせられます。


名胡桃事件について、前回の八王子城巡りの際に、ガイドの方に北条氏が謝罪、あるいは釈明に行かなかった理由を聞いたときには、「豊臣秀吉が、農民出身の、成り上がり者だったので北条家の体面があり、謝りにいけなかったのだ」と仰っていました。


しかし、今回の加藤さんの解釈は「当時、豊臣秀吉と直接、やり取りができなかった。中間に入る取次ぎ役がいたが、真田側の取次ぎ役は、石田光成など優秀な人たちだったが、北条側は、不幸にも、無能な取次ぎ役が、秀吉との間でやり取りをしたため、秀吉の誤解を解けずに事態が悪化したのだ。」というのです。


小田原城評定という言葉があるように、北条氏は、常にくずぐずして判断が遅く、それによって自体を悪くしていったイメージだったのですが、加藤さんの話を聞き、そうではない、肯定的な人物像に変わっていきました。


八王子城は北条氏照を象徴した城ですし、そこから八王子市の名前もついているので、北条氏照や


北条家の解釈は、とても大切で、八王子市のイメージにも繋がるのだと気づかされました。


戦国時代の名将、北条氏照について、さらに学ぶ機会を持ちたくなった時間でした。