あの日を忘れない!8月2日八王子空襲の日

7月31日〜8月4日までの5日間、八王子駅南口総合事務所で、第35回平和展が開催されていますが、去年に引き続き、参加して来ました。

この平和展は、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に伝えていこうと毎年開催しています。

今年は、コロナの渦中にあって、開催が危ぶまれたのではないかと思います。

例年だと、八王子空襲についてや、広島、長崎での被爆体験を、語り部の方達が話して下さったり、JICA の活動や、八王子市出身の肥沼信次 医師の業績などが、パネル展示されていますが、今回は、八王子空襲を中心とした、八王子での戦跡、特攻隊、東京空襲のパネルのみで、小規模に開催されていましたが、このような時にも、展示会を開催するための工夫をして下さった、八王子市の関係者に感謝したいです。

8月2日は、八王子の日(802)だと知っていましたが、「八王子市内で暮らす人、働く人、学ぶ人などいろいろな立場の人が八王子のことを考え、八王子を楽しみ、八王子の魅力を再確認する一日」で、八王子空襲の日とは、別物だと、今回、初めて分かりました(^^;;

そうだとしても、八王子市の歴史を考える上で、第二次世界大戦中に、日本の中でも、八王子市が特に大きな被害を受け、戦後、平和を誓って街の復興が始まったことは、忘れてはいけないことですし、後世に伝えていかないといけないことだと思います。そういう意味で、八王子の日と八王子空襲の日が同じ日だというのは、意義深いことだとも思いました。

平和展の展示の一つ、八王子空襲は、1945年8月2日にアメリカ軍が八王子市周辺にむけて行った空襲のことですが、2時間にわたって爆撃され、1600トンもの焼夷弾が投下されだそうです。日本本土空襲で3番目の投下量で、その凄まじさは、当時八王子市街の近くに住んでいた人が「夜空が真っ赤にそまった」と語った言葉にも現れています。

焼夷弾は中に油が入っていて、地面に落ちると、数十メートル四方へ火焔を噴出し、木造の多い日本の街を猛烈な焔で焼き払うために開発されたものでした。
八王子空襲では、八王子市街地の 80%以上が焼けて壊滅状態になり、空襲で亡くなった人は約450名、負傷者は、約2,000 人、焼失家屋は 14,000 戸以上となっていたことを、展示されていた当時の写真や、被害の状況を示した八王子市街の地図を見て、よく分かりました。

八王子空襲の弾痕が、今でも大和田橋に残っているのですが、八王子市中心街から、すぐの場所なので、その後、直接、行ってみました。

数え切れないほど通った道ですが、透明板で覆われた二箇所の弾痕と、弾痕の跡を示している茶色のタイル、15箇所が存在していることに初めて気づきました。


透明板で覆われた弾痕

また、大和田橋の下に避難した多くの市民が、大和田橋のお陰で、生き延びることができたことも、驚きでした。資料で見たのと、実際に行くのとは明らかに違います。

八王子空襲や、八王子市の戦跡について、インターネットで検索してみると、中央大学の学生が制作した多摩探検隊の動画がたくさん出てきます。

その中で「Ruinsー廃墟になった八王子」を見てみたのですが、戦後の9月15日、焼け野原になった八王子の中心街を撮影したアメリカ陸軍通信隊のマラシュクという方が、千代さんという若い女性に、「笑ってください」と声をかけて、顔を上げながら、笑顔で見つめている場面や、廃墟で一生懸命生きようとしている市民の姿を映像に鮮明に残していました。


私たちが考える戦争の悲惨さよりは、戦争が終わって良かった思ってか、明るく微笑んでいる人が多く写っていました。

第二次世界大戦で、八王子市を始め、多くの犠牲を払って、平和を得た、あの喜びを、現代に生きる私たちは忘れないで、伝えないといけないと強く感じる時間でした。

今となっては、当時の姿を思い出すことも出来ないほど、発展した八王子市!

コロナのことで、新しく活動をすることを自粛せざるを得ない厳しい世相ですが、このような時だからこそ、八王子市の過去を省みて、平和の価値を学ぶ平和展に足を運んで欲しいと思います。

今だからこそ、発見できる何かがあると思います。