日台の架け橋となった男 台湾ダムの父
八田與一が残した真の日本人の心

2020年12月5日、台湾×八王子市ホストタウンイベント「台湾ダムの父 八田與一が残した真の日本人の心」をオンラインイベントで行いました。


本来は、オンラインと現地でのハイブリッド式で行う予定でした。


しかし、コロナ感染の第3波が急速に広がり、講師である八田さんの住んでいる愛知県でも不要不急の移動自粛要請があり、オンラインでの開催、乃至は、中止という判断が迫られましたが、今年を締めくくる日台交流の大事なイベントであるため、八田修一さんとも相談して、オンラインで行う決定を、11月末にしました。


おもてなし国際協議会では、日台交流イベントを2018年の2月から行っていて、ホストタウンの存在を知った2018年の秋から、八王子市が台湾のホストタウンになるようにできないか、オリンピック・パラリンピック推進室に働きかけたりもしていました。


そうしているうちに、本来開催されるはずだった2020年の東京オリンピック・パラリンピック直前である2020年5月29日に、八王子市が台湾のホストタウンになったのですが、コロナ期間が予想以上に続いて、オリンピック・パラリンピックが延期になってから、ホストタウン普及運動が、おもてなし国際協議会の主な活動になって行きました。


2020年5月5日には、台湾が八王子市のホストタウンになる日に備えて、「第5回 グローカルカフェ 街を変え未来を変える ホストタウン」を開催し、その時にグループワークで話し合われた内容を何とか形にできないかと、いろんな試みをするようになりました。


試行錯誤の末に、直接的な台湾との交流の難しい中でできることを考えて「台湾応援メッセージ動画 ジャーヨー台湾」を市民に公募し、集まった動画を編集して、八王子市オリンピック・パラリンピック推進室から台湾パラリンピック委員会に「台湾応援メッセージ動画」として送ってもらうようになりました。


このように行っていく中で、気づいたのは、(ホストタウンを通して、真実な台湾との信頼関係を作るためには、交流イベントだけしていても、進展はない。日台関係の礎を築いてきた人物や活動を学んで、その土台の上で関係性を築いていくべきだ。)ということでした。


日台の架け橋になると口で言うのは簡単かもしれませんが、実際に、多くの日本人と台湾人から認められ、長く語り伝えられる人は、世界で最も親日だといわれる台湾との間でも、ほとんどいないことが分かりました。いくつかの資料を見る中で、台湾ダムの父、八田與一さんが日台の架け橋と言える1人者ではないかと確信しました。


八田與一さんは、自分のことを知ってほしいと思っていたわけでもないですし、政治家や経済家のような権力もなかったにも拘らす(だから、多くの人の心に残ったのだと思いますが)70年の歳月が過ぎても、変わることなく、日台の多くの人から慕われているため、きっと日台の絆を強く、太く、深い絆にする秘訣が、その方の生き方の中にあるに違いないと思っている時に、偶然にも実のお孫さんである、八田修一さんの存在を知るようになり、今回のゲストスピーカーとして登壇してくださることになったのです。

ゲストスピーカーとして登壇してくださった 八田修一さん

八田與一は、故郷、石川県金沢市を離れて、東京大学土木科に入学します。よく、友達に大きな話をするため、大風呂敷の八田と呼ばれていたようですが、そこで出会ったのが、八田の運命を大きく変えた、広井勇教授でした。


「広井がいなければ、日本の近代土木は50年遅れを取った」といわれるような方だったようです。


その方は、「建築をするときには、人々に安心を与えるものにしないといけない。」と、よく話されていたそうです。安心まで与える建築をするためには、様々なことを考えて、備えないといけませんが、この一言を持って、当時の日本人の精神レベルの高さを窺い知ることができます。


また、八田の度量の大きさを見て、日本国内より、外地の方が生かされることを見抜いて、台湾行きを勧めたのも、広井教授でした。


偉大な人物の後ろには、偉大な師がいるものです。


八田が、ダムを作った場所は台南にある、華南平原でしたが、当時、塩害、洪水、旱魃の3つに悩まされる、まさに不毛の地でした。


そこに住む住民たちに、せめて普通の生活をしてほしいという切なる思いが、10年に及ぶ、壮大なダム建設へと繋がって行ったのです。


今では、華南平原は台湾最大の穀倉地帯であり、そのために大きな貢献をした八田與一さんは、地域住民によって銅像が建てられるほどに、尊敬されていますが、当時は、台湾総統府や、地域住民からも反対されていました。


台湾総督府からは、烏山島ダムの水では、華南平野の3分の1しか、給水できないため、工事の規模を3分の1にするのはどうかと言われ、地域住民は、「過去のオランダ統治時代、清国の統治時代でもできなかったことをするなんて、きっと口だけだ。それによって税金を騙し取られるのだ」とか、「自分の土地だけ、水が流れるだけで十分なのに、なぜ、そんな大規模な工事をするのか」と八田與一のダム建設計画に対して、協力的ではありませんでした。


しかし、一部の農民だけでなく、華南平原の、すべての地域住民が平等に給水を受けるべきだという八田さんの信念を貫き通し、三年輪作制というシステムを考案したのです。


三年輪作制とは、烏山頭ダムが完成しても、華南平原に供給できる水は、必要な量の3分の1しか供給できないため、地域を三つに分けて、稲作とサトウキビ栽培と、畑作の3つを3年周期で順番に行うシステムでしたが、それによって、米やサトウキビの生産量は予想を大きく上回り、その後、日本へも輸出されるようになったのです。


そんな八田與一さんのこと日本で知られだしたのは、李登輝 台湾元総統のある事件からでした。2002年11月の慶応大学三田祭で、李登輝 台湾元総統がゲスト講演者として招待されていましたが、当時、中国との国際関係が敏感な時期で、日本政府から、ビザが発給が下りず、来日を断念せざるを得ませんでした。その時の講演原稿「日本人の精神」の全文が産経新聞に載り、その8割ほどの内容が八田與一さんについての内容だったのです(後で、ぜひ、読んでみてください)。


李登輝元総統は、日本人の精神を八田與一さんの人生を通して、学生たちに伝えようとしたのです。


そこで出てくる日本人精神とは

①公に仕える精神
②伝統と進歩の調和
③義を重んじ真を持って率先垂範、実践躬行する精神

だと書かれていますが、「日本人として、今のように生きているか恥ずかしくなった」と八田修一さんは仰っていました。


また、「今はすでに、日本人精神が台湾精神になっているように思う」とも仰り、台湾のコロナ対策の姿勢、若者の年寄りに対する礼儀などを見て、以前の日本はこのようだったのではなかったのかと考えさせられるそうです。


今回の八田修一さんの講演を通して、台湾とのホストタウンを通しての交流も、日本精神の回復が絆を深める鍵になるのではないかと、思うようになりました。

日本との経緯が深い台湾との交流を、これまで進めてこれたことに改めて感謝する思いになりましたし、八田與一さんを始めとする、日本人が残してきた精神をもっと深めていくことこそが、「真のおもてなし」に繋がるのではないかと思いました。