戦後のドイツで伝染病の治療に命を賭けた八王子市出身 肥沼信次医師

八王子市出身で、ドイツと八王子市との架け橋となっている肥沼 医師!
2017年 7月に、八王子市制100周年記念事業として、肥沼医師 ゆかりの地であるドイツ ヴリーツェン市との海外友好交流交流協定締結がされました。

その記念行事として、2017年8月11日に、おもてなし国際協議会が主催したイベントで、音楽劇「冬桜のリーベ〜肥沼 信次物語〜」を行なって、早、3年が経とうとしています。

感染病 新型コロナが世界的に拡大しているこの時期に、時間を見つけて、日本テレビ、平成29年2月5日に放映された「ドイツが愛した日本人〜佐々木 蔵之介が巡る、ある医師の物語」をDVDで見るようになりました。

現在のドイツの光景と、当時の70年ほど前の、肥沼さんの当時のドイツが行き交いながら、ストーリーが進んでいくのですが、驚いたことの一つに、ドイツの街中では、ナチスドイツ当時の痕跡を、わざわざ、後世の人たちにも分かるように残しているのです。


例えば、ポールの上にパンの絵が描かれている甲板があるのですが、その裏面には、「ここには当時パン屋があって、朝5時〜6時でないとユダヤ人は、パンを買えなかった。」と書いていたり、当時の破壊された教会や、当時の地下の診療室を、そのまま残して、上の建物は、市役所として使っていたりして、過去の歴史をありのまま伝え、二度と過去の過ちを犯してはいけないという、強い決心がドイツの町の至る所に見られるのです。

それを見ながら、八王子市より、ドイツのヴリーツェン市で、肥沼さんの業績が語り継がれて、八王子市より先に名誉市民になったことが、納得できました。

八王子市出身の肥沼 信次医師は、中学の時に来日したアインシュタイン博士に憧れて、東京帝国大学の放射線医学部に入学した3年後、第二次世界大戦前の1937年、29歳の時にドイツへ留学し、ベルリンの大学で、放射線医学の研究に励みました。放射線は、当時最先端のガン治療として注目を集めていて、研究が進めば、大勢の人が救えるはずだと考えたようです。

また、当時、放射線治療の研究が最も進んでいた国のひとつがドイツでした。しかし、ベルリンの大空襲があり、研究者としての道が閉ざされます。日本大使館は、ベルリン在留の日本人に脱出するように勧告しましたが、集合場所に現れず、肥沼医師は、危険を承知で、ドイツに留まることを決意します。

ドイツが敗戦し、戦後、ドイツを占領したソ連軍が創設したドイツのヴリーツェン伝染病医療センター初代所長となり、発疹チフス(当時、悪魔の伝染病と呼ばれた。)の治療に、命を賭けました。

そこには、医者は誰もおらず、看護婦が七人だけで、その内、五人も発疹チフスに罹って、亡くなります。薬も足りず、最低限の治療器具しかなかったけれども、果敢に治療を試み、治療の合間には周辺の街やベルリンに出向き、薬をかき集めました。

一人一人救われる姿を見て、口癖のように「良かった。また一つ命が救われた。」と話していたようです。

普段の肥沼さんは、そんな深刻な状況にも拘らず、前向きで、陽気だったと、その当時を知るヴリーツェンの市民が話していたのが印象的でした。

そして、1946年3月6日、肥沼はついにチフスに感染をし、看護師が薬を飲ませようとすると、肥沼医師は「他の患者さんに使ってくれ」と断り続けたそうです。一度も薬を口にしなかった肥沼医師は、発症して2日後の1946年3月8日、37歳という、あまりにも短い生涯を終えました。

今回の世界的なコロナの感染の只中にあって、私は、やっと少しでも、当時の発疹チフスの状況を実感するようになりました。また、医療崩壊の危機が深刻になっているのを見聞きする度に、肥沼さんが生きていたら、どうするだろうと考えることがあります。世の中がいくら絶望的な将来について語ったとしても、希望を失わず、一人一人の救われるのを喜んで、使命を果たしているだろうと。


「神は耐えられない試練は与えない。」という言葉があります。過去の歴史が実証するように、犠牲を厭わず、命を救おうと最前線で働く人たちがいる限り、人知を超えた奇跡は起こると信じます。