映画「台湾人生」〜かって日本人だった台湾人の方たちの生涯に触れて〜

12月5日のオンライン台湾魅力探訪で、台湾三部作を制作されたゲストの酒井充子さんが、台湾の11箇所をピックアップして、案内して下さりながら、日本統治時代に青春時代を過ごした日本語世代の台湾人と日本との経緯について、教えて下さいました。

11箇所を80分程で案内して下さったため、各地域のことを、もう少し知りたくなったのと、酒井充子さんの「台湾三部作」を実際に見てみたら、さらに違った光景が見えてるのではないかと思い、2021年最後の12月31日に、酒井充子監督の処女作であるドキュメンタリー映画「台湾人生」を自宅で鑑賞しました。

よく「台湾は世界一の親日国だ。」とか、「日本統治時代に台湾は発展したため、日本の統治の仕方は良かった。」と評価する見方を、よく聞きますが、「台湾人生」に登場する日本語世代の台湾人、5人の生の声を聞いてみると、青春時代の忘れられない美しい思い出と共に、戦争や、民族差別による傷を、心の底には抱えている姿を垣間見るようになりました。

台湾総統府や、228記念館のボランティア解説員をされている蕭 錦文(しょう きんぶん)さんは、日本統治時代の歌謡曲や童話が大好きで、今でも、よく歌い、また、日本語世代の台湾人たちと会うと、時間を忘れて話しに花を咲かせていました。

その蕭さんが、戦前、多数の犠牲者を出した、ビルマのインバール作戦に志願兵として参加したのですが、マラリヤにかかったことが、不幸中の幸いとなり、生きて台湾に帰って来ることができました。その後、1945年8月15日に玉音放送を聞き、突如、終戦を迎えた混乱の中で、それまで敵国として戦っていた、中国の国籍になってしまいます。

その時に、蕭さんは、日本に捨てられたと感じたのと、それ以降、日本政府が、当時の日本のために命を懸けて戦った台湾軍人に対して、「ご苦労様でした」の一言も無かったことが、絶対に認められないと話していました。

また、戦時中、日本の国を守る一心で戦っていたのに、上官から、チャンコロ(中国系の人たちに対しての蔑称)と言われたことが今でも深い傷になっているとも語っていました。

日本が去って、中華民国統治後、蒋介石による白色テロによって、愛する一歳下(当時26歳)の弟が殺され、あまりにも悔しく、何もできなかった自分に対し、何とも言えない不甲斐なさを感じたそうです。総統府の中にある、蒋介石に関する閲覧室を、訪問者に紹介するときには、自分の弟のことを話しながら、「その時のことを思い出したくないので、聞かれたことだけ答えます」と仰っていました。

次に、日本統治時代、貧しくて、中学校を退学しようとしていた宋定國さんですが、日本人の担任教師が、5円札(当時は大金)を、黙ってポケットに入れてくれて、学校に続けて通えるようにしてくれました。宋さんは、涙を流しながら「先生、絶対、成功してみせます。」と感謝に胸が一杯だったそうです。戦後30年経って、やっと先生の消息を探し当て、感激の再会ができたそうです。

程なく、先生が他界した後も、宋さんは、毎年、恩師のお墓参りをされていることに、見ている私までも、心が熱くなりました。

台湾原住民・パイワン族出身のタリグ・ブジャズヤンさんについては、 台湾魅力探訪では、高雄市の西南にある牡丹卿を紹介しながら、1871年12月19日に漂着した、宮古島島民66名中54名が現地のパイワン族に殺害された「牡丹社事件」との関係で、紹介されていましたが、映画「台湾人生」では、1972年に、原住民族としては、初の国会議員になった方として、登場していました。

原住民たちも、日本統治時代に、日本兵に混じって、30年間、果敢に敵軍と戦ったのだそうです。タリグさんは「原住民が戦わなかったら、今の台湾は無かったのだ」と。当時、原住民は、高砂族と呼ばれていましたが、その地位は、一等国民の日本人、二等国民であった漢族系の台湾人より、さらに低い身分、最下層の三等国民だったのです。

原住民の軍人達は「高砂族義勇隊」と呼ばれていましたが、当時の原住民の男性たちは、差別する日本社会を見返したい思いもあって、競って義勇隊を志願したそうです。「サバイバル能力」や、「兵士」としての戦闘能力は、飛び抜けていて、当時の日本軍関係者は、今でも、高砂族義勇隊の功績を称賛しているようです。

タリグさんは、パイワン族の人口が減り続けていることに、諦めの気持ちを持ちながらも、残念に思っているのが、よく分かりましたが、一方で、「原住民であることを、決して忘れてはいけない」と原住民であることの価値を訴えていました。

上に挙げた、日本語世代の3人の台湾人が、流暢な日本語で話すのを聞いてみると、国境を超えた親しみを感じるのと同時に、度重なる苦労を経てきた、深い傷も伝わってきました。

「台湾人の悔しさと懐かしさと。本当に解けない数学なんですよ。」と基隆市の医者の奥さんとして、映画に登場した陳 清香さんの言葉が、台湾人の歴史を代弁しているように聞こえました。

「台湾人にとって解けない数学」という意味深長な言葉から、もっと台湾に魅力を感じましたし、台湾を通して、知っているつもりになっている日本を、深く見つめ直し、日本が将来、歩むべき方向を指し示す羅針盤となってくれているのではないかと思うようになりました。

2021年の最後の日に、来年の台湾との交流活動を、どのように進めていくべきか考えさせて下さる機会が与えられたことに、心から感謝します。