戦後76年 八王子の戦跡から、歴史を読み解く!



10月22日 元都立高校教師で、八王子市の戦争遺跡研究者、齋藤 勉氏の講演会が八王子市学園都市センター第一セミナー室で行われました。



八王子の戦争遺跡と言っても、どの期間の戦跡かと言うと、長い八王子の歴史の中で、特に西南戦争から終戦の1945年までの期間のことを言うようです。



戦前の証言ができる人は、70年が経過するとリアルに語れる人が減ってくるのと、恐怖感と共に語れる人は、さらに少なくなるそうです。



今回講師をされた齋藤さんは、現在、いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会会長と、浅川地下壕の保存を進める会事務局長をされていますが、八王子市の戦跡については在野の研究者に任されていることもあり、語り継いでいく後継者がいないと仰っていました。



八王子市の戦争遺跡で私がすぐに思いつくのは、京王八王子駅から徒歩10分程の場所にある、大和田橋に残っている焼夷弾の跡です。



1945年8月2日未明に、爆撃機B29が169機やって来て、焼夷弾を投下し、市街地の8割が焼失した八王子大空襲の時のものです。



一つの橋に50もの焼夷弾が落ちて、今も残っているものは、全国にも例が無いそうです。



焼夷弾は建造物を焼き払う目的で使う投下爆弾ですが、その模型を持ってきて下さいました。焼夷弾という名前だけは以前から聞いていて、もっと大きなものをイメージしていましたが、細長い筒のようなものだと分かり、当時の空襲の様子を実感することが出来ました。



また、英霊墓という戦死した兵士の墓が八王子市に多く存在していて、日露戦争や日中戦争での戦死者のためのものなどがあるのですが、齋藤さんは「日中戦争の中で第二次上海事変での戦死者が特に多い」ことについて気になって調べてみたそうです。



第二次上海事変が始まる以前に、中国軍の指揮官 蒋介石は、ヒトラーの影響を受け、ドイツ製の火器を装備し、ドイツ軍事顧問団の訓練を受け、精鋭部隊を作りあげていたのです。



中国軍は弱いだろうと思って、訓練もちゃんと受けていない中で、多くの日本兵たちが上海に入っていったため、上海第二次事変の犠牲者が格段に多かったことが分かったそうです。



このように、戦争の惨禍を物語る戦跡も老朽化、劣化していて、価値を見出して残していく動きをしないと、なくなってしまいます。



「西の原爆ドーム、東の変電所」とも言われていて、戦争遺跡を街の「平和のシンボル」にした、東大和市にある旧日立航空機立川工場変電所や、ナチス・ドイツ時代のホロコーストの記憶の取り組みの一つ「つまずきの石」のように、歴史を風化させないように、過去の出来事について興味を持って考える人が増えるような取り組みが必要です。



ただ、八王子市の方では戦争遺跡の説明板やモニュメントの設置はしていないそうです。(大和田橋の焼夷弾跡の説明板も、ある個人が設置したようです(^_^;))



戦後の平和の礎となる戦争遺跡は必ず残していくべきものですが、8月初旬には八王子市で平和展も行われましたし、八王子市民の皆さんや、市外、海外からも見に来て、フィールドワークができるようになれば、八王子市民が平和の街として自負心を持つに違いありません。



来年の平和展まてに、今日の思いが少しでも形になる活動を是非始めたいと思いました。