八王子シルクロード

ある地域に長く住んでいると、見えるもの、聞こえるものが、当たり前になってしまったり、他の地域と比較したり、マイナス面がクローズアップされがちですが、そんな時にこそ、Think globally Act locally (グローバルに考え、ローカルに行動する。)な視点って大事だと思います。
「世界で最大のことは、自己を知ることである」ですね。
8月31日八王子市民活動支援センターの会議室で、はちおうじ哲学カフェ 第8回「世界から見た八王子」というタイトルで行われた集まりに、20人程の市民と、主催する創価大学のゼミ関係者が参加しました。
特に取り上げたのは、トロイア遺跡を発掘した考古学者シュリーマンの旅行記に出てくる八王子の記述です。
1865年に清国と、日本を旅行した際の「シュリーマン旅行記 清国 日本」ですが、その時は、まだ、シュリーマンが、ギリシャの遺跡を発掘する前であり、シュリーマンの書いた最初の作品になりました。
明治維新の3年前の頃です。
シュリーマン旅行記の目次には、
第4章 江戸上陸 第5章八王子
第6章 江戸 第7章日本文明論 と書かれているくらい、八王子に行くことを、当初から、楽しみにしていたようです。
横浜に到着したシュリーマンは、八王子に立ち寄って、横浜に戻り、江戸に行くのですが、当時の八王子は関東周辺、多摩地域の生糸の集積地であったため、桑都(そうと)と言われ、養蚕業や絹織物が有名で、ヨーロッパでも、知られていた程だったというから驚きです。
その当時は、八王子は、「2万人くらいで、たいていの家に絹の手織機
があり、絹織物の店を出している。」と書かれています。
なぜ、そこまで、日本の生糸がヨーロッパや、アメリカまで、輸入されたかと言うと、1840年くらいから、蚕病が、フランスに広がり、1847年には、イタリヤにまで、広がり、1852年には、蚕病がもっと流行ってフランス、イタリヤでは、蚕業は、大不振に陥ります。
また、当時、ヨーロッパでは、中国の生糸が安価なため、独り勝ちしていたけれども、質が不揃いである難点がありました。
しかし、同じアジアで安価な日本からの生糸が入ってきたため、その問題が露わになったようです。
そのような様々な要因が重なって、シュリーマンが来日した1865年には、生糸が、日本の輸出品のなんと85%を占めていました。生糸はすべて、横浜からヨーロッパへと送られていたので、生糸の集積地だった八王子がヨーロッパでも、知られていたのは、納得できます。
また、その後、ヨーロッパの技師を招き、高質の生糸の生産が可能になり、安価で質のいい日本製の生糸の輸出量が1909年には世界で第一位を占めるようになったそうです。
現在では、八王子で養蚕を行う家は3件しかないそうですが、生糸が、八王子の歴史と、世界に繋がるものだとは、全く知りませんでした。
シュリーマンが見た当時の麗しい八王子!その片鱗は、詳しく調べてみるとあちらこちらで、見つけることができます。
おもてなし国際協議会は、現代のシルクロードとなって、人と人、町と町、国と国をつなげる役割を、この八王子で果たしていきたいです!