八王子とドイツの架け橋 肥沼 信次 医師の映像が完成 (第176回多摩探検隊)

海外では知られているのに、母国では知られていない有名人は、古今東西、存在しますが、八王子では、「肥沼 信次 医師」が、その人に値すると思います。
時代に先立つグローバルな活動をする人たちは、ローカルに考えがちな日本では、なかなか覚えられない傾向があると思います。
特に八王子市制100周年にあたる2017年に、脚光を浴び、多くの八王子市民だけでなく、日本中に知られるようになりました。
その年の7月10日にドイツ ブリーツェン市と八王子市が海外友好交流協定を締結し、ヨーロッパとしては、初の海外友好交流都市(八王子市は、2006年に泰安市(中国)、高雄市(台湾)、始興市(韓国)と海外友好交流協定を締結しています。)となり、市民団体「Dr肥沼の偉業を後世に伝える会」により、
9月3日に肥沼 信次医師の顕彰碑の除幕式も行われました。

肥沼さんは、1908年、現在の八王子市中町の肥沼医院の長男として生まれ、日本医科大学を卒業後、放射線の研究者として東京大学に進学されます。
そして、子供の時からあこがれていたアインシュタイン博士のいらっしゃったベルリン大学の伝染病研究所に渡ります。
ベルリン大学では、東洋人として初の同大学教授の資格を取得します。第2次世界大戦中もドイツに留まり、戦後は東ドイツのヴリーツェンで発疹チフスの治療に専念されます。
多くの人々の命を救いましたが、自らもチフスに感染し1946年3月、37歳の若さで、亡くなりましたが、最後に「さくらが見たい」と言って息を引き取ったと言われています。
敗戦後、ドイツは東西に分断され、ブリーツェンはソ連統治下の東ドイツとなったため、肥沼信次の名前は共産主義陣営の壁に阻まれ、
1989年ベルリンの壁が崩壊するまで、彼の名前は日本ではほとんど忘れられてしまいます。しかし多くのドイツ人の生命を救った彼の名前は、親から子へ、子から孫へと語り継がれ、多くのドイツ人の心に刻みこまれていきました。
肥沼信次はドイツの教科書に載るほど地元の人たちから尊敬されていたのです。1994年にはヴリーツェンの名誉市民となりました。

NPO法人 おもてなし国際協議会の関係者も、37年という短い生涯を終えた肥沼医師の愛あふれる「真のおもてなし」をした生きざまが、今も市民の心に深く息づいていることに感動し、彼の伝えたかった思いは何だったのか?を深く考えるようになりました。
その後、演劇「冬桜のリーベ」~肥沼信次物語~の脚本を、脚本家の馬場さくらさんに書き下ろししていただき、2017年の5月と8月に2回公演を行いました。
肥沼医師という人物と同時に、現代の日本が忘れかけている命の価値、平和の価値を市民の方に伝えるイベントをさせていただき、多くの方々に見ていただくことになりました。
演劇の主人公となった、肥沼医師の姪にあたる松尾 奈津子さんは、涙ぐんで、演劇をご覧になられ、「ぜひ、再び演劇の公演してほしい」と仰って下さっていました。
去年の演劇の際に、ちょうど、肥沼 医師の映像を作成しようとされていた 中央大学の多摩探検隊の方と交流があり、10分の映像を1年かけて、ついに2018年の11月に完成するようになりました。
ブリーツェンで直接取材し、作成した前編の映像はすでに作成されていて、それはブリーツェンから見た肥沼医師の姿をドキュメンタリーにしたものでしたが、今回は、その後編という形で、八王子から見た肥沼医師の生涯にフォーカスを当てています。
多摩探検隊の関係者の了解があり、今回NPO法人おもてなし国際協議会のホームページで、公開させてもらうことになりました。
多摩探検隊は、多摩地域の魅力を、まずは多摩地域の方に、さらには、日本の各地に映像で伝えている中央大学のゼミ生の方たちです。
普段住んでいる地域の魅力は、むしろ外部の方が発見することも多いですが、その恩恵を受けている私たちから、伝えていくことが
大きいことを今回の一連の件を通じて、気づきました。