日本のパラリンピックの始まりについて知っていますか?

スポーツの祭典オリンピックが始まると、テレビでも放映され、世界中で盛り上がるのですが、あれだけ盛り上がっていたオリンピックも、終わった後にパラリンピックが始まると放映されなくなります。
パラリンピックの注目度が低い?そのために、視聴率が低いため、生中継で放映されず、一部のテレビ局で、ダイジェスト版での視聴に留まっていますが、オリンピックも、パラリンピックも、平和を最終目的にしているのであれば、パラリンピックのことを、もっと知ってもらって、関心の高くなる東京オリンピックにしていきたいなと思っていました。
そのために、日本パラリンピックが、どのように始まったか、見てみたいと思います。
パラリンピックの名前の意味は、戦争で脊髄損傷して下半身不随(paraplegic)+オリンピック(Olympic)の造語が起源ですが、半身不随者以外も参加するようになったので、1985年ソウルオリンピックから、平行(Parallel)+オリンピック(Olympic)で、「もう一つのオリンピック」と解釈することになったようです。障害者のオリンピックですね。
最初は、リハビリの一環として、イギリスのグッドマン博士が、病院で社会復帰のために、球技大会を行ったことから、始まっていて、1952年オランダチームの参加により国際的競技大会となりました。
日本では、グッドマン博士に強い影響を受けた中村 裕という医者が、ほぼ1人で始めたのですが、彼がいなかったら、日本のパラリンピック運動がなかなか、進まなかっただろうと言われています。
グットマン博士から、脊髄損傷患者
の85%が6カ月で社会復帰すると聞かされた時の衝撃を、中村は著書でこう語っています。
「おそらくウソだろう…あるいは、ほんとうだとすれば、よほど特殊な治療法があるのだ…秘術というものがあるなら、何としてもつかんで帰らねばならない」
「博士の秘術は何なのか…それはたしかに、コロンブスの卵のように、明瞭で正しい治療法だった…患者はいつまでもベッドで寝ていることを許されなかった。『一日も早く、わずかでも機能を回復させる』ために、スポーツがすすめられた…日本では考えもつかない治療法と、その効果を見ることができた」
「自分の筋肉を使って自らはい上がっていく、能動的な治療」を直接、現地に行き、確認した中村 医師は、「手術よりスポーツ」の方針の正しさを確信して、それを日本でも行おうと活動され始めたのです。
障害者にスポーツをさせようとした中村 医師に対して、「体を崩したらどうするんだ。」「障害者を見世物にするのか?」と反対意見しかなかったのです。
でも、最初の確信は揺らぐことなく、大分県身体障害者体育協会を設立し、1961年10月22日に第1回大分県身体障害者体育大会を開くようになります。障害者選手による本格的な競技会は、日本ではこれが初めてとなりました。
さらに、障害者の国際大会を開くことに対して、日本の関係機関に熱心に訴えましたが、反応は冷たいものだったらしいです。
しかし、諦めずに、東京パラリンピックの準備委員会に強く訴え、1962年ストークマンデビル大会(後のパラリンピック大会)に2名の選手と共に参加。これが、世界的に報道されて、日本の障害者スポーツに対する認識が、深まりました。
これまでの中村医師の努力が実を結び、1964年11月8日に、ついに東京パラリンピック大会が開催されることになりました。23カ国から、428人の選手たちが参加して、盛大に大会が行われ、パラリンピックという言葉が、初めて、世界にしれわたるようになりました。
本人の想像を絶する努力と、固く揺れない信念の上に、時が味方をしてくれたのだと思います。
中村 医師は57歳という若さで亡くなられましたが、「日本パラリンピックの父」として、障害者のイメージを大きく変えることに貢献しました!
歴史は繰り返すと言いますが、56年ぶりの東京パラリンピック大会に向けて、私たちも、今、小さい力を集めて何かをスタートさせることで、新たなパラリンピックの一ページを飾れる予感がします。
「自分より少しだけ不幸な人の、幸福のために働き戦うことは価値のあることだ。そして、困難なことでも、熱意ある人々が力を合わせればなんとかなる。」 ―中村 裕―