困難な時代の道標となる、八田與一の生き方

2021年5月8日は、八田與一さんの命日で、台湾での慰霊祭の様子を何かの形でも見たかったのですが、台湾の現地とは八田與一さんの故郷、金沢市とだけオンラインによる中継で、参加できたようでした。

八田與一さんが亡くなって80年近くになり、去年に引き続き、コロナ禍であるため、参加者は少ないのではないかと、自分の勝手な考えで予想していたのですが、なんと、台湾からは総統、副総統、行政院長という3大巨頭が参加され、日本からは、安倍前首相、森元首相、蓮舫参議院議員らが参加されているのを見て、日台の国家指導者が多いことに、とても驚きました。
今年の八田與一さんの慰霊祭は、過去に例がないほどの錚々たる顔ぶれだったとのことです。

もちろん、烏山頭ダム着工100周年ということもあったでしょう。
台湾の蔡英文総統は「世界は様々な試練に直面している。八田技師の視野と実行力に学んで、気候変動などに対して、日本と手を携えて立ち向かっていきたい。」と語られたそうです。

今から100年前、雨季と乾季の降水量の差が激しく、不毛の地だと言われた台湾の嘉南平野(台湾最大の平野)に住む農民の生活は、困窮状態に陥っていました。

その劣悪な環境と、そこに住む貧しい農民たちの状況を知った八田與一は、何とかしてあげたいと、誰よりも切実に感じたのでした。
その切なる思いが、当時、東洋で最大級の烏山頭ダムと大規模水路網、嘉南大圳の着工構想として実を結んだのでした。

1920年〜1930年の10年に渡る大事業の途中、日本で未曾有の関東大震災が起こり、ダム建設の費用が、大幅に削減され、作業員に人件費が払えなくなったり、ダム工事中にトンネルでの爆破事故が起こり、大勢の犠牲者を出すなど、予想外のことが何度もありました。

そのような中でも、植民地の支配下にあった台湾人に対し日本人と対等に接し、むしろ彼らにとっての幸せを最優先に考えたことが、困難な状況を越えさせる力となって、ついには、日本人と台湾人が一つになって共に大事業を完成させたのです。

10年の歳月をかけて完成した水路の距離は、約1万6000キロ。戦後、日本最大規模の灌漑工事となった愛知用水の10倍を超える距離なのです。
八田が作った新しい水路から水が流れたとき、台湾の農民たちは「神の水が出た」と感激のあまり涙を流したと言われています。

不毛の土地を、台湾最大の穀倉地に変えた男、八田 與一。
1942年5月8日、フィリピンに向かう途中、アメリカ潜水艦の去来攻撃で船が沈没し、56歳という若さで亡くなリました。

セミハイドロリックフィル工法と言って、コンクリートをダムの中心部にわずかしか使用せず、ほとんど、土と石だけを利用し、ポンプによって作られた烏山頭ダ厶は、建造されて100年経つ今もなお、使われていて、嘉南平野を潤しています。
今も台湾人の心に八田與一は生きているのです。

八田與一さんが、台湾を愛するが故に、困難を物ともせず、最後まで諦めないで大事業を成し遂げたように、私達も、困難な時代だからこそ、イノベーションを起こそうとする大志を抱き、そのために、自分に与えられたミッションを最後まで諦めないで、果たしていきたいと思います!

「最後まで行う人に、奇跡は起こる!」