第二回八王子ぶらり歴史探訪
八王子城跡から見る八王子の歴史

11月21日(土曜)秋晴れの下、第二回八王子ぶらり歴史探訪を私たちの団体と学生団体ツナグ~across2020~主催で行いました。先日の八王子観光コンベンション協会のハイキング企画「心源院から歴史古道を歩いて八王子城山へ」でガイドをして頂いた高尾ボランティアガイドの横内さんに、今回のガイドをお願いすることができたため、コロナ第3波の中ではあったのですが、安全に気をつけながら無事に企画を進めることができました。

バスの時間帯の関係で、高尾駅北口から、八王子城ガイダンス施設には直接行かず、霊園前口で下車し、そこから歩いて宗関寺(北条氏照の100回忌に中山信治が八王子城の戦死者を供養するために、菩鐘を寄贈)や、北条氏照の墓の近くを通りながら、八王子城跡まで石畳の道を歩いて行けたので、味わい深かったです。


八王子城は、大きく分けると

①城下町に当たる「根小屋地区」

②氏照が住んだ、御主殿のあった「居館地区」

③戦闘のときの要塞となった「要害地区」の3つに分かれているのですが、八王子城ガイダンス施設に到着した時点で、すでに当時の城下町を見て回ったことになっていました。


山に囲まれた田舎の長閑な光景を見ると「昔の光、今いずこ」という瀧廉太郎の歌が思い浮かんだりもしました。 この地域は、元八王子というらしく、ここから八王子の歴史が始まったのを考えると感慨深かったです。


八王子城ガイダンス施設が見えてから、横内さんが、本格的に八王子城跡のツアーガイドを始めて下さり、時代をタイムスリップしたかのように、高揚感が高まりました。


入り口に当たる大手門跡を通り、八王子城落城の際に、立てこもっていた女性子供、将兵たち自害して身を投げたといわれる御主殿の滝を過ぎ、八王子城跡のパンフレットによく載っている曳橋(ひきばし)のところに到着しました。


もともとは敵の攻撃に備えて、簡単に崩せる橋だったため曳橋という名前がついていたので、その当時とは形も位置も違うようですが、御主殿に繋がる玄関の壮大さを現す素晴らしい建築物でした。


曳橋を渡ると、当時の石垣が今も残っている虎口が曲がりくねって、御主殿入り口まで続いています。階段の高さが一段36センチ(普通の高さは約20センチ)で、相当、上りにくく設計されていたり、名前のごとく虎の口のように攻め入りにくいような工夫が様々にされていました。北条氏照の家臣が、織田信長に挨拶しに行った際に、安土桃山城を見て、その荘大な石垣の報告を受けたことで、それをモデルにして御主殿の入り口までの道を作るようになったそうです。


御主殿の出入り口となる冠木門を越えると、そこには広大な御主殿跡が広がっていました。一言で言うと、礎石になる石が散りばめられている、だだっ広い原っぱなのですが、ガイドの横内さんから説明を聞くと、全く違って見えるようになりました。今では、日本100名城に数えられる八王子城跡ですが、落城400年を記念して、1990年になってやっと御主殿の発掘が始まり、虎口、御主殿の存在が明らかにされたそうです。

第1次の発掘作業で、壮大な景観を想像させる礎石跡が多く見つかり、第二次発掘作業で、庭園の池などが発掘されたようです。当時は枯山水(かれさんすい)型の庭園と、池のある庭園とでは、圧倒的に池のある庭園の方の格が高かったようです。        


御主殿には、2つの大きな建物跡があり、一番大きい建物が政治を行う主殿、もう1つが来客者を迎える会所といわれる場所でした。氏照は来客者に主殿で合い、その後、会所で迎えたそうです。

そこで饗宴を催しながら、来客に池の庭園を見せ、目を上げると八王子城が見えるように、氏照は建物を構想したのだろうと、横内さんが語っていましたが、その当時の氏照の権勢がどれほどだったのか、容易に想像することができました。


そこから要害地区となる八王子本丸跡に向かって、八王子城山を登りましたが、旧道からのぼり、新道から下りてくるルートを取りました。    


頂上の本丸跡の直前で八王子神社に立ち寄りましたが、すぐ隣に本丸を守った横地監物を祀っている社がありました。横地監物は、北条氏照の重臣で、八王子城の戦いのときに城代となって、本丸を守るために戦ったのですが、八王子城跡碑には、落城の際に遁走し、奥多摩地域の小河内村付近で自害したとあります。横内さんの解釈だと、ただ逃げたというより、かくまわないといけない人がいて、そこを脱出するしかなかったのかもしれないと仰っていました。歴史にどう残るかによって、その人の人生の評価が大きく変わってしまうのは怖いですね。


今回のツアーで八王子城跡を専門のガイドの方と回ることことができたことで、今までの八王子城や北条氏照の印象が大きく変わりました。


八王子城は、豊臣秀吉の小田原城征伐に先んじて、別働隊に攻められ、1日で落城したこと、秀吉の小田原城征伐で、氏政と共に氏照も切腹している悲劇的なイメージが先行してしまいました。


しかし今日の説明を聞いてみると、八王子城の築城後から、八王子の名前が地名に使われるようになったこと、また、八王子城は関東屈指の山城であったこと、そして1日にして落城の悲運に遭ったけれども、八王子城落城が、戦国時代から、江戸時代に転換するきっかけになり、また、様々な理由で城跡が開発されず、保存状況がよかったこともあり、日本100名城の一つになっていることなど、八王子城に関してだけでも、誇るべき点が幾つもあって、八王子の歴史に対しても誇りを持つことができるようになりました。


また、前回、武田の遺臣たちによって、江戸時代の八王子が新たに作られていった歴史を学んだ上での第二回八王子ぶらり歴史探訪だったため、さらに新しい発見が多かったと思います。


第3回八王子ぶらり歴史探訪も、近いうちに企画出来たらと思っています。