ドキュメンタリー映画「サワダ」リバイバル上映会 ピュリッツアー賞 写真家 澤田 教一のメッセージ

11月3日~15日まで、1997年に公開されたドキュメンタリー映画「サワダ」のリバイバル上映会が東京写真美術館で開催中ですが、私は初日の11月3日に見に行きました。

同じタイミングで、東京の半蔵門駅近くにある、日本カメラ博物館でも、澤田 教一さんの当時の写真や、受賞メダル 表彰などの展示展があったので、没50年に際して、澤田さんやベトナム戦争のことを知ってもらい、平和について考えてほしい主催者の思いを強く感じました。


実はドキュメンタリー映画「サワダ」はアジアン ドキュメンタリーズの配信で、数ヶ月前に鑑賞していたのですが、そのときは、澤田さんや、ベトナム戦争について、ほとんど知らない状態で見たので、新しく知ることの興奮はありましたが、表面的なものでした。

その後、「戦場カメラマン澤田 教一の目」写真集や、青木 冨美子著「ライカにグッドバイ」等を読み、10月28日に故郷の青森県弘前市で、澤田さんの奥さん、サタさんにも、挨拶したばかりでしたので、今回見たドキュメンタリー映画のメッセージには圧倒されました。


澤田さんと関わっていた、大物写真家や、ジャーナリストのインタビューが映像で出てくるのですが、みんな一様に、澤田さんの当時ことを、尊敬の念を持って語っているのが分かりました。


映画の最初の方で「サワダの写真は、撮った人に対する敬意があった。彼は写真を通じて、物語を伝えている。人間に対する物語だ。」というアメリカのジャーナリストの言葉が、澤田さんの写真について的確に表現したもののように思いました。


第二次世界大戦後、米軍三沢基地が建設され、アメリカ人軍人の町として三沢の町が沸き立っていた頃に、澤田さんは基地内のカメラ店で働きながら、本格的に写真を撮り始めてました。その後、そこで知り合ったサタさんと結婚されます。奥さんサタさんの証言によると、その時が一番幸せな時だったと仰っていました。


朝鮮戦争後、それまで賑わっていた三沢の町も下火になってきていた1961年に、澤田夫妻は上京し、澤田さんが三沢時代に知り合っていた米軍将校の紹介でUPI通信社に入社。65年にUPI通信の特派員になり、その9ヵ月後に「安全への逃避」で


アメリカ報道界最高の栄誉、ピューリツァー賞を受賞します。


「安全への逃避」の一枚の写真が、ベトナム戦争を2年、短くしたとも言われています。


短いベトナム滞在中に報道写真家として大成功した「世界のサワダ」の帰国後、UPI通信の日本人の同僚たちの反応は冷たく、誰も歓迎しなかったのでした。


その中の一人、今井さんという方は「それは、同僚としては、面白くないですよ。みんなが行きたくても行けないベトナムに、勝手に行って、9ヶ月で大きな賞を取ったなんて聞いたわけですから。」と証言していました。


そのことで澤田さんの自尊心はひどく傷ついたからか、トップでい続けないといけない焦燥心からか、ピューリツァー賞を撮ってから、さらに危険を冒して写真を撮るようになっていったそうです。


ベトナムに戻ってからもUPI通信では、白人並みに扱ってくれないため、UPIを去り、ベトナムから香港で、報道関連の管理職として働くようになりました。


しかし、そこでのアメリカ人上司による人種差別はひどく、また、香港で妊娠していたサタさんが、流産をして、ショックを受けたこともあったからか、「ここを去ろう」といって、再び、カンボジアのプノンペンに報道写真として追いやられるかのように行ったようです。サタさんは香港に残して。澤田さんのその当時のメモには「千里の道も一歩から」と書き残されています。


澤田さんは、1970年10月28日に、反政府軍の待ち伏せ攻撃に遭い、34歳の若さで亡くなりました。


しかし、その人生の輝きは、作品として生きつづけています。


映画の中で紹介された澤田さんの写真は、混乱のベトナム戦争の中で、最も弱い者たちへの愛の眼差しと平和への訴えが込められていて、平和ボケしている私たちにとって、忘れていたものを呼び起こしてくれます。ぜひ、ドキュメンタリー映画「サワダ」を見に行って見てください。